加藤清正公略年譜


1562 6月24日尾張国愛智郡中村に生まれる。

1564  父、清忠、急遽。

1566  津島に移る

1569  津島・妙延寺にて読み書きを習う

    加藤三傑として活躍した森本義太夫、飯田覚兵衛と相撲をとって主従の絆を結ぶ

1576  元服し、秀吉から加藤虎之助清正の名と170石を与えられる

1577  市足久兵衛という酒乱の足軽をからめ捕り200石を加増され小物見役に取立てられる

1581  秀吉の鳥取城攻めに従い蜂須賀正勝と共に功名を立て100石を加増される

1582  秀吉の備中高松城攻めに従い支城である冠山城を攻めて感状を与えられる

1582 (本能寺の変)

1583  賤ヶ岳の戦いで敵将戸波隼人を討ち取り「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる

           小牧・長久手の戦いで撤退の殿を務める

1585 (秀吉の四国攻め。 秀吉関白となる)

1587 (秀吉の九州出兵 肥後を佐々成正に与える)

1588  肥後北半分を与えられ 25万石の大大名となる

          (同時に小西行長には肥後の南半分24万石が与えられる)

1588  隈本に着任

1588  天草の志岐城を攻略

1589 (秀吉 小田原城を攻略)

1590  小田原攻めを終わった秀吉を岡崎で出迎え

              故郷に立ち寄ることを進言し自らも故郷中村に錦を飾る

1592  小西行長とともに 朝鮮出兵の先鋒を命じられる

1593  加藤清兵衛駐留の吉州朝鮮の義勇軍に包囲され苦戦。清正救出に向かう。

              清正軍 漢城に撤退

1593  清正 秀吉の命により朝鮮の二王子大臣などを石田三成らに預け,

              三成はこれを沈惟敬に返還する

1596  釜山を出発

1596  京坂地方に大地震 すぐに伏見城に駆けつけ秀吉の勘気解ける

1596  隈本を出発 再び朝鮮に向かう

1597  明軍の包囲網を突破し蔚山に入り籠城

1598 (秀吉死去 撤退命令でる)

1599  家康の養女(水野忠重の娘)を娶る

1600  母伊都 病没 69才

1600 (関ヶ原の戦い)

1600  関ヶ原の戦いの功により家康から肥後54万石を与えられ肥後守に任ぜられる

1600  嫡子 忠広生まれる

1601  熊本築城開始(天正18年説もある)

1601  長女 あま生まれる

1607  熊本城完成 隈本を熊本と改める

1608  駿府城の築城を命じられ 浅野・池田・福島ら諸大名と共に従う

1610  北陸・西国の諸大名と名古屋城築城

1611  浅野幸長と共に豊臣秀頼を護衛し 二条城での家康との会見を成功させる

1611  熊本へ帰る船内で発病し 5月27日帰着 6月24日死亡

 

1615 (大坂夏の陣 豊臣家滅亡)

1632  加藤忠広 出羽国庄内にお預け

 

1871  熊本城内に錦山神社(加藤神社前身)創建

1885  津島・清正公社創建

1909  熊本錦山神社 加藤神社と改称


監修: 湯田崇弘