伝統芸能・狂言


狂言とは

 「能楽」は、ユネスコ無形文化財の日本第一号となった、日本最古の演劇の一つです。

 「能楽」は、「能」と「狂言」の二つの総称で、幽玄性が濃く抽象的で重厚な歌舞劇・仮面劇である「能」に対して、滑稽味が強く写実的で軽妙な科白劇・素面劇が「狂言」です。

 つまり、「狂言」は、コントやコメディのようなものです。


尾張の狂言

 尾張名古屋は、東京や京都と共に、狂言が盛んな地域です。

現在、名古屋で活躍しているのは、明治維新の混乱後も弟子たちが結束して流儀を守った「狂言共同社」と江戸時代に尾張と肥後の両藩に抱えられ、400年途絶えることなく続いている「野村又三郎家」です。

  尾張の能狂言は、江戸時代から武家のみならず町人層にも愛され、子どもの習い事や、今でいうサークル活動として、生活の中に浸透していました。

 今でも、能楽堂で演じられだけでなく、「やっとかめ文化祭」で野外の辻狂言が演じられるなど、様々な形で楽しまれています。



狂言トピックス

<室町時代>

 観阿弥・世阿弥親子によって大成された『能楽』は、武士の心と身体を育む役割を担い、戦国期には、命がけの戦の中で、心のより所となる芸能でした。

<戦国時代>

 豊臣秀吉は「狂言」を好み、「耳引」という演目を家康・前田利家と共に禁中(天皇の住まい)で演じた記録が残っています。そんなわけで、もちろん秀吉の子飼いの加藤清正・福島正則も日常的に能狂言に親しみ、能楽師を召し抱えました。


<江戸時代>

 「幕府の式楽」と定められ、大名家の儀式・おもてなし行事には必ず能狂言が演じられました。その演目の組み方を「番組」と言い、今もTVやラジオで使われていますね。能舞台は、屋外にあったため、“芝の上に居て観る芸能”なので、「芝居」という言葉が生まれたそうです。

 

 各藩のお抱え能楽師の中には、お城の近くに家を与えられるものもいて、いつでも出勤できる体制が整えられました。今でも、能楽師は舞台に出ることを「出勤」、その出演料を「出勤料」と呼んでいます。

 

 お役所に勤めているひと(公務員さん)や有力商家の旦那衆(社長さんなど)は、皆、能や狂言を習うのが当たり前の時代でした。